第一章三つの雨音とブレーキ
カッパーベルの夕方は、工場の交代を告げる長い笛で始まる。
東の丘に並んだ煙突の根元から、低い音が街の底を這ってくる。朝と夕方に一度ずつ鳴るその笛を、この街の人は壁の時計より信じていた。笛が鳴ると炉の番が替わり、油の染みた作業着の列が坂を下りてくる。通りの角ごとに、環境設備の保守灯が橙色を一つずつ増やしていく時刻だった。
その音を追い越すように、今日は短いクラクションが二回聞こえた。市場の店主が、量りかけの豆を皿に残したまま外を見る。路地の水場で工具を洗っていたボットが、ブラシを握った手を止める。カイには、軒先の受像機から流れるレース中継の実況が、ほんの一瞬、遠くなったように聞こえた。
帰還車が戻ったのだ。
外周路の向こうへ出ていった車は、街へ入る手前で必ずそう鳴らす。短く二回。無事に帰った、という意味のほかには何も含まない音だった。それでも、その音を聞いたあとの街は、少しだけゆっくり動く。
店主は皿の豆を量り直し、ボットはまたブラシを動かし、実況はもう一度、先頭を走る機体の名を叫んだ。
その向こう、町でいちばん古い丘に、針の合わない大時計が立っていた。毎日の時刻を示す小さな環の外に、もう一つ、遠い日付を指す環がある。誰が作ったのかも、何を待つのかも、カイの学校では教えなかった。
時計番の年寄りたちは、その日付を「道を返す時」と呼んだ。朝には塔の下の水桶を洗い、使った水の量と、見回りをした者の名を残す。祖父も、生きていた頃はそこへ油を届けていた。古い申し合わせには、土地を使う量と、回復を待つ時間を一緒に数える、とある。市場の若い者は、休ませるなら自分の工場の方が先だ、と笑った。
それでも時計が止まれば、笑った者も歯車を運んだ。水場の掃除が済むまで、店を開けない人もいた。カイは祖父の代わりの油を、まだ届けられていなかった。
カイは閉じた透明な仕切り越しに、洗い場の屋根の穴から空を見上げていた。穴は、両手を広げたくらいの大きさだった。錆びた波板の縁がめくれ、その向こうを、雲とも煙ともつかない灰色が流れていく。
朝にやんだ雨が、夕方になってまた降り始めていた。仕切りの向こうの洗い場には、鉄を舐めたような酸っぱいにおいがこもっていた。作業側へ入った時に鼻に残ったにおいを、カイはまだ覚えている。この街の雨は、放っておけば屋根を食う。
通りの歩く側には透明な覆いが続き、その下へ環境設備が空気を送っていた。風の強い日は、店と店を結ぶ仕切りも閉じる。覆いを外れれば、雨がやんでいても面体と濾過器が要る。外壁の向こうでは、その空気まで車に積んで行かなければならなかった。
洗い場の土間には雨漏りを受ける桶が三つ置いてあった。一つは洗い桶、一つは塗料の空き缶、もう一つは底に布を詰めた古いバケツで、どれも半分ほど水が溜まっている。レンが天井から床まで閉じた透明な仕切りと、排水口の中和材が、雨の入る土間を作業台から隔てていた。清浄な側には別の送風口がある。落ちてくる滴の高さがそれぞれ違うので、三つの桶は三つの音で鳴った。仕切りを挟んだ隣の乾いた床に、祖父の古いカートがある。
防水布をめくると、細い車体の塗装はところどころ剥げ、座席の革は乾いて割れていた。けれど車軸は真っ直ぐで、手で回せば車輪は軽く回る。祖父が最後まで手を入れ続けた車だった。座席とココの台を一緒に覆う透明な屋根には、細かな擦り傷がある。屋根は車体に付いたままで、乗り降りには横のハッチを開けた。
カイは車体の専用フックから、クリーム色のフルフェイス型ヘルメットを取った。顎紐を締め、低い座席へ滑り込む。前へ足を伸ばしてペダルを踏むと、レンが車輪のそばでうなずいた。閉じた透明なバイザーと風防の向こうに、その顔が重なって見えた。点検が済むとハッチを開けて降り、ヘルメットをすぐ横のフックへ掛けた。
カイは子どもの頃、この座席の横に立って、祖父がボルトを締める順番を数えていたことがある。一、二、三。最後の一本だけは、祖父はいつも締める前に一度、手を止めた。
受け継いだガレージの看板には、かすれた文字で「ハガネ工房」と書かれていた。入口の上に打ちつけられた鉄板の、半分は錆に食われている。それでも読めた。読める限り、ここはまだ工房だとカイは思っていた。
レンは点検を終えると、工具箱を持って入口へ戻った。戸の留め具を直し、看板の下に残った水を払う。
「最初の賞金で屋根を直す」
カイが言うと、入口に立っていた親友のレンは、肩に提げていた工具箱を床へ置いた。重い音が床を伝わり、仕切りの向こうの桶の水面が揺れた。
「先にブレーキだ」
「走らなきゃ、賞金もない」
「止まれなきゃ、屋根も要らなくなる」
レンはそう言った時には、もうカートの前にしゃがんでいた。ブレーキの踏み板を指で押し、戻りの遅さを確かめる。眉一つ動かさないのに、指先はやけに丁寧だった。昔からそうだ。カイが走り出す前に、レンはもう止まり方を考えている。
「雨の日に走ったら、屋根より先に俺たちが濡れるぞ」とカイは言ってみた。
「外套は濡れても、中を濡らさずに帰るんだ。止まれなかったら帰れない」
レンは顔も上げずに、踏み板の付け根へ油を一滴落とした。
小さな相棒ボットのココが、二人の間で首を振った。丸い胴に、細い腕が二本。小さな車体には、警告と帰還を知らせるクラクションが付いている。ココは首を左右に振り、それからカートの座席の横、自分のための台座をこつんと叩いた。自分のカートなのだから、自分にも相談してほしいという顔だった。
「わかったよ」とカイは笑って、ココの丸い頭に手を置いた。「ココは何から直したい」
ココはしばらく考えるふりをしてから、屋根の穴を指し、それからブレーキを指し、最後に自分の台座を指した。
「全部か」
「全部だね」とココが言った。小さな、少しかすれた声だった。
「注文の多い相棒だな」
「カイも、さっき二つ言った。屋根と賞金」
「賞金は注文じゃなくて、予定」
「まだ取ってない予定で、部品は買えないぞ」
ようやくレンが顔を上げた。カイは言い返そうとして、笑ってしまった。さっきまで入口に立っていたレンが、当たり前のように床へ工具を広げている。昨日まで、ここへ来る人は、祖父の残した品を引き取りに来る人ばかりだった。今日は誰も、何かを持って出ていこうとしていなかった。
最初の工具を置いた時、床板が短く鳴った。祖父も、同じところへ工具を置いていた。カイはその音を覚えているのに、次にどの工具を渡していたのかは、もう思い出せなかった。
「これ、どっちから外す」
知らないことを口にすると、看板まで借り物になる気がした。レンは二つ並んだ留め金のうち、汚れの薄い方を指した。
「こっち。外した順に置いとけ。戻す時に困る」
カイはうなずいた。祖父と同じようにできる、と言わずに済んだことに、少しほっとした。ココが部品を置く場所を空ける。今度は、次の一本をどこへ置くか、三人とも知っていた。
カイは仕切りの手前に置いた、空の回収桶の取っ手を持ち上げた。雨漏り側の桶を扱うには、面体と外套を着けて洗い場へ回らなければならない。
「じゃあ、俺が排水を見てくる。着替えてくるから、ブレーキ、頼む」
「その前に、どこが悪いか見ていけ」
レンは床を二度叩き、自分の隣を空けた。ココが早速そちらへ台座を寄せる。カイはバケツを置き、レンの隣へ膝をついた。三つの桶が、三つの音で鳴り続けていた。